ある瞑想家の気づき

瞑想を通して得た気づきなどを書いていきます

AIイラストは絵描きに意識の変容を迫っている

AIイラストの台頭について思うことは、今絵を描く人たちはAIに意識の変容を迫られているのだということです。
AIは短時間で大量に商業イラストを生産することができますよね。
あれを見て多くの絵描きはアイデンティティが揺らいだと思います。そしてこう思いました。

 

「自分は今まで一体何のために絵を描いてきたのか」
「自分が今までやってきたことは何だったのか」

 

この問いは自分が発したものというよりAIが発したものかもしれないですね。
「あなたは何のために絵を描いてきたのか?」と
もちろんその問いに沈黙で返すこともできるし、筆を折るという選択で返すこともできますが、やはり多くの人は「何のために」を考えると思います。

 

ここで目を背けたいような事実に気づく人もいると思います。
私のように、褒められたいから、ちやほやされたいから絵を描いてきただけの人です。
こういう人間にとっては別に絵じゃなくてもいいんですよね。たまたま絵が得意だったから惰性で続けているだけ、しがみついているだけ。絵は承認欲求を満たすためのツールでしかない。

 

その他にもいろんなことに気づくことがあると思います。「自分が楽しむために絵を描いている」と言いながら人の評価に一喜一憂している自分とか、評価が欲しいがために自分の好きなものでなく、みんなが好きなものを描いている自分など、人の数だけ気づきがあると思います。
しかし、良きにつけ悪しきにつけ気づいた途端意識は変容を始めるのです。

 

AIイラストの台頭から1年、ある程度棲み分けもできてきて共存しているような状況に落ち着いたように見えます。
その間私は、褒められたい自分や承認欲求丸出しの自分について瞑想することを余儀なくされました。
そしてそのおかげで絵を描く目的も「精神の修行のため」に変わってきました。

 

精神の修行として絵を描くようになると、描き上げたものよりもどんなマインドで絵に取り組んでいるかの方が重要になってきます。迷いなく線を引けていることとか、どれだけ無念無想になれているか、とかそういうことの方が重要になってきました。
もはや結果なんてどうでもいいのです。書き上げた途端破り捨てたって良い。
絵を描く目的がこのように変容してから、もう昔のように承認欲求に任せて何かをすることが馬鹿らしくなってきました。認められたいのに認められない、そんな苦しみからも解放されました。
人の評価に左右されずに夢中で絵を描いていた子どもの頃のような気分です。
そして今ではそんな気づきと変容を与えてくれたことにAIに感謝しています。

 

しかしながら世の中にはAIの台頭によって躓いたままの人や絶望して心を病んだ人もいると思います。
でもそれはもったいないと思います。
AIイラストの台頭は人に問いかけを与えていて、人はそれに対する答えを必ず持っているのですから。